春のプログラム

嫌いな季節は春 気が滅入ったら更新します

みんなの願いは同時には叶わない

1ヶ月ぶりにはてブロのアプリを開いた。

ブログの説明文に気が滅入ったときに更新すると書いてあるのを見て、「このところ更新していなかったということは、実は最近元気だったのでは?」と思ったけれど、全然そんなことはなかった。

 


本質的な願いは一緒なのに、それを目指すアプローチが異なるが為に起こる不幸は本当に悲しい。

 


わたしは人並み以上にアイドルが好きな一方で、CDを聴いたりライブDVDを観るだけに留まる、いわゆる"在宅ヲタク"だ。在宅の理由は地方都市在住で遠征する体力が無い(甘え)とか、コールに代表されるような現場のノリが好きになれないとか、アイドルには偶像であって欲しいというヲタク観故に接触はポリシーに反するので避けたい他方純粋に接触を楽しめるオタクが羨ましい気持ちもありそういうシーンで心的にかなり疲弊するとか、そういったものが絡みあって出来上がった現場像に親しみが持てない…といった按配である。そんな言い訳を並べた上で、昨日行ってきた現場での話をしたいと思う。

 


これだけ文句を並べておきながら現場に行ったのは、最近興味の出てきたグループのライブが生活圏からそう遠くない場所で開催されるからという単純明快な理由だった。東京や大阪ではありふれたことかもしれないが、京都でこれだけの条件が揃うのは3年前のメトロのゆるめるモ!以来で、しかも無銭(これに関しては良し悪しではある)とのことだったので、せっかくだからと足を運ぶことにした。

 


幕が上がる。袖からメンバーが登場し、キレのあるダンスと共に曲を歌い上げる。後方下手の壁際で突っ立ち地蔵と化すわたし。良心の呵責から時折揺れてみたりクラップを打ったりするものの、ツーステップを踏みながら絶叫するヲタクに囲まれて険しい表情になる。「ノリ方はそれぞれだから好きにしたらいい」とはよく聞く話ではあるけれど、それは理想論であってノリ方に統一感があった方が全体として盛り上がるのは自明である。以前ナカコー氏のアンビエントプロジェクトのDJイベントに行った際にも彼から同様のことが語られていたが、棒立ちから僅かに揺れてリズムを取る以外の方法でノッていたオーディエンスはほとんどいなかったし、万に一つあの場面でMIXを打ち出す人がいたなら一発で退場となっていたことだろう。だとしてアイドルの現場での地蔵が退場になる程の行為とも思えないが、居心地がいいかと言われるとそうではない。わたしは根が陰気なので、こういったライブに行っても騒ぐよりもじっくり味わいたいという気持ちになることがほとんどだ。そして、そうやってじっくり味わうことで居心地の良し悪しとは別に、わたしは最大限にライブを楽しんでいる。幸い今回は無銭で新規が多いからか、他にも地蔵は一定数いた。熱心なヲタクの邪魔さえしなければいい、そう思っていた。

 


最後の一曲で、サークルを組むようにとメンバーから指示が出る。いけない、申し訳ないけれどそんな気力は持ち合わせていない。ステージから降り立つメンバー、フロアに三重のサークルが出来上がりつつある。虚空を見つめながらじりじりと後退する。より後方に構える地蔵達は堂々と突っ立っている。わたしもこうすればよいのだ。徐々にサークルから距離を取る。もうすぐ安全圏、そろそろモッシュが始まりそうだ。サークルの間を歩き回るメンバー達。その内の1人と目が合う。ここから彼女が手招きの後にわたしの手をとりサークルに連れていくまでの時間は永遠のような一瞬で、気づけば汗だくでワキガのヲタクと肩を組みフロアをぐるぐると回っていた。

 


彼女から発せられていたのは100%の善意だった。わたしが輪に入れずにまごついているように見えたのだろう。アイドルが手を差し伸べればヲタクは喜ぶと思ったのだろう。恐らくそれは大抵の場合において正解で、その善意に救われたヲタクか大勢いることは想像に難くない。何も間違っていない。アイドルとして正解の行為をしたに過ぎないのだ。その場を楽しもうとする気持ちは同じだった。彼女は1人でも多くの人と盛り上がりを共にすることで、わたしはアイドルとは触れ合わずに隅で眺めていることで楽しみたかった。ただ、そこだけが噛み合わなかった。わたしは彼女の善意を彼女が望む形で受け取ることができなかった。

 


ステージから捌けていくメンバーを見届け帰路に就いた。挨拶と一緒に終演後物販の説明もしていたので恐らくアンコールはないだろう。あったとしてもこれ以上あの場に居たくなかった。無銭だから最低限物販で何かしら買って帰ろうとも思っていたが、帰りたさが勝った。悲しさや申し訳なさでいっぱいになった。ライブは自体は楽しかった。みんなも神使轟く、激情の如く。の現場に行こう。生牡蠣いもこさん、爆レス戴いたにも関わらずクソみたいな反応ですみませんでした。応援してます通販で何か買います本当にすみませんでした。おわり。

ロンリネス

概念に形を見出そうとする話に弱い。「幸せに形があるとしたら、それはどんなもの?」といった具合の、居酒屋の隅の席で酔いの回った陰気な学生達が懇々と語らっていそうな感じのアレである。対象を既知の構造に落とし込むことで目に見えないのに大切なものがあるという不安が和らぐのと、語り手のその概念に対する態度に人となりがよく出るような気がしているので、こういった話題になるとつい聞き入ってしまうことが多い。

 

先の"幸せ"なら、星屑みたいな形をしているとわたしは思う。掌に降り注いだそれは、ひとつひとつがとても小さい。その為、時に見失いそうになるけれど、目を凝らして見るとキラキラと輝いていて雄弁に存在を主張するのだ。けれど、それは失くさまいとどれだけ大切に握りしめても、指の隙間からこぼれ落ちてしまう。失くしたことには中々気付けなくて、気付いたとしても拾うには小さ過ぎて二度と戻ってくることはない。更に難儀なことに、掌を開かないことには手にした輝きを目に焼き付けることも、新たな輝きを手にすることも叶わないのだ。だから時々、確認する。両の手で包み込むようにして、集めたそれを覗き込む。せめてこれだけは失くすまいと、祈るような気持ちと共に。

 

文字に起こしたことで、恒久的な幸せのビジョンが弱いことに気付かされる。少し悲しい。なんとなく、左手を握りしめてみる。そこに星屑の感触はなくて、当たり前のことになのに少しガッカリする。落ち込んだ気分そのままに床に就き、昨日の出来事を思い出す。他愛ないやり取りに想いを馳せていたら、気付けば穏やかな気持ちになっていた。幸せの形について考えることはきっと手段に過ぎなくて、本当に大切なのはそこにある幸せを感じることなのだと、そう思い直して眠ることにした。

無題

従姉妹の飼い犬の葬儀の日、恋人に振られた。何となくそんな気はしていたので「やっぱりか」と思った。

この人とは長く一緒にいられないのかもしれないけれど、いなくなったらとても寂しくて悲しいだろうな、とはかねてから思っていた。そしてそれは現実になった。想像通りに寂しくて悲しい。そうやって自分を観察する自分とその自分をこうして批評する自分を作り上げて、裸の自分を守っているんだと思う。

 

立て続けに悲しい出来事が起きると心が麻痺するような気がする。泣きっ面に蜂とも言えるこの状況で、涙が一滴も出てこない。そのことにまた悲しくなる。

不幸中の幸いは、その日わたしが一人になることがなかったことだ。家族や友人、寂しさや悲しさを和らげたり吐き出せる相手がいた。本当にありがたかった。

 

ここまで書いて"泣きっ面にBeing"というのを思いついて、自分で少し笑った後、また悲しくなった。単純に面白くないということと、茶化して理性を保とうとする幼さにうんざりする。自身の感情に正面から向き合えないことに情けなくなる。オチは特にない。

従姉妹が飼っている犬が亡くなった。享年13歳、老衰らしい。犬の平均寿命は11歳と聞いたことがあるので、天寿を全うしたと言えるのだろう。利口で可愛らしい犬だった。

 

従姉妹の家に度々遊びに行くようになってからというものの、犬との触れ合いの時間はわたしにとって安らぎだった。握手を求め何度も手を差し出すいじらしさに触れる度、穏やかな気持ちになれた。愛おしい時間だったと思う。

 

犬が死んで悲しい。悲しい気持ちは確かにあるのだが、生活に大きな支障が出る程の事ではない。飼主でもないのにわんわん泣いている人がいたとしたら(犬だけに)、違う意味で大丈夫かと心配になる。今のぼんやりと靄がかかったような気分がしばらく続いて、一週間もしない内に普段通りの情緒が戻ってくるのだろう。そんな自分を少し不謹慎だと思う一方で、それでいいのだとも思う。犬が寿命で死ぬ。当たり前のことが、当たり前に起きただけなのだ。その当たり前に対する割り切れ無さがわたしの中で靄になっている。そして靄が晴れることもまた、当たり前のことなのだ。

 

とは言え、悲しいものは悲しい。少しぼーっとしてしまうし、お腹は空くけどガッツリ食べようという気にもなれない。従姉妹が飼っている犬が亡くなった。事実以上の意味付けをしてしまうような弱さはないし、事実を無視できるような強さもない。

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風景

iPhoneのカメラロールをスワイプする。ずらりと並んだ過去5,6年分の写真や動画が画面上を駆け抜けていく。スクロールが止まり、映し出された写真を見て「あぁ、そんなこともあったなあ」などと感傷に浸る。スマホユーザーならば、一度はこの遊びに興じたことがあるのではないだろうか。他の人に尋ねたことはないけど。しかし、無作為抽出(時系列の昇順か降順のスクロールになる為正確には異なるが)の過程とは言え、愛おしい瞬間や忘れたくないひと時を切り取った写真を流し見ることに慣れてしまったことに時折寂しさを感じる。贅沢というか、勿体ないというか。

 

わたしが撮る写真の被写体は人間が大多数だ。風景は勿論のこと、小洒落た洋菓子を小洒落た感じに収めた写真なども殆どない。その時々を誰かと過ごした、ということがわたしにとって重要なのかもしれない。先の遊びの中で掘り返される写真も、親しくしていた人達との他愛ない一瞬がその殆どを占める。だからこそ、人間を被写体としない写真を掘り返したとき、面喰らう。そして、シャッターを切ったときにわたしは何を考えていたのかと想いを馳せる。

どうでもいいけど、携帯のボタンを押して写真を撮ることを"シャッターを切る"と言うのには妙な気恥ずかしさがある。インスタントカメラやデジカメであれば恥ずかしくない。それらは写真を撮る為だけのデバイスだから。

 

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スクロール遊び本日1枚目の写真は大学の屋上の風景を収めたものだった。4年前のものであるという事実に時の流れの早いことを感じる。そして、この写真を撮った当時のことを思い出す。映画撮影が課題の講義で資料に使う写真だったと思う。ここをロケ地に映画を撮ったのだ。

"出来は問わないので2週間以内にショートフィルムを撮ってこい"という課題に対して、無気力な学生だったわたしはロケ地が1箇所で済むような脚本を書き上げた。当時ハマっていた青山景先生の短編漫画にインスパイアされリスペクトしオマージュしパクったその映画は、とても褒められた出来ではなかったことを覚えている。つまんないのはわたしが悪いけど、課題なんだから台詞くらい覚えて来てほしかったと役者担当のグループメンバーに思ったことも思い出した。思い出したくなかった。

撮影が終わってからもこの屋上にはちょくちょく訪れた。人気の無い空間だが室外機が忙しなく音を立てており、それがまた寂しさを際立たせた。その寂しさが少し好きだった。ゼミ室の建物から近かったこともあって、卒論シーズンはドールのオレンジジュース(当時は紙パックの容量が今より少し多い500mlだった)片手にここでサボったりもした。ぼーっと空を見て、そうしていられることをたまらなく愛しく思っていた。

少し探してみたけれど、これ以外にこの屋上の風景を収めた写真は見当たらなかった。資料として以外に、わざわざ撮る理由を見出せなかったのだと思う。にも関わらずこの写真を消さずに残していたのは、きっとこの場所にわたし自身を見出したからなのだろう。陳腐な落とし所だが、それ故に得心がいく。そして、この場所に行くことは多分もうない。

 

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当時の友達に描いてもらった映画の絵コンテも出てきた。この友達とはすっかり仲違いしてしまった。だから何、ということはないのだが、そんなこともあったなと思う。この人と会うことも多分もうない。

私の好きなもの

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漫画:イエスタデイをうたって(冬目景,1997~2015)

映画:ジョゼと虎と魚たち(犬童一心,2003)

小説:ビニール傘(岸政彦,2017)

音楽:東京シティ(転校生,2012)

 


ここまで書いて

ジャンル名:作品名(作者名,初出年)

のフォーマットで書けるものの少なさに気付いてしまった。

ASD的拘りの強さがやる気を奪いました。今日はこれでおしまいです。